kechappu

片田舎のスーパーに陳列されているケチャップが見た夢

娘

 雨の中駆け回りはしゃぐのが好きだった。束になった髪が飛び跳ね、少しかたい学生服がピタリと肌に張り付く。シャワーの沁みるような温かさに、涙が出そうで好きだった。

 寒い日にベランダで吸う空気が好きだった。白い息を吐く度、感覚が鈍く痺れていく。部屋に戻った時痛い程に熱い、足の指先が好きだった。

 皆には突飛な出来事だったとしても、私の行動には一貫性があって、それはわざわざ伝えるべきことでも無い。

 今日は冬から夏の制服に変わる移行期間の最終日。私はそわそわとタイミングを伺っていた夏服を着て、家を出た。幸いなことに天気は、この一週間の移行期間の中でも一番の快晴で、空は高く青い。

 何時もと同じ様に午前中を過ごした私は、友人たちに声をかけた後屋上へ向かい、そこから飛び降りた。

 

 「コツ、コツ」と、先が細く硬いものが地面を打つ音がする。「コツ、コツ」一定のリズムで徐々に近づいてくる音、何処かで聞いた事がある。そう思ってすぐに、母が履いていた、真っ赤なハイヒールを思い出した。

 母はいつも、黒く見える程真っ赤な口紅を塗り、それと同じくらい赤いハイヒールを履いてでかけた。

 コツコツと鳴る神経質そうなハイヒールの音とは裏腹に、明るく染めた髪をかきあげる母は他愛なく見えた。

 「母親になるには早すぎた」という人も居たが、私は他の母親を知らなかった為問題はなかった。むしろ幼い友人たちが愚痴る母親とは違う家の母を、気に入ってもいた。

 

 ぼんやりと考える内に、音が私のすぐそばにまで近づき、止まった。そのときになって初めて、今自分が置かれている状況にまで思考が至る。

 薄く目を開くと、思ったより近くに音の正体はあった。期待を裏切ることなく、赤いハイヒールがあった。ただそのハイヒールの持ち主が見当たらないことに関しては、裏切られたと感じた。

 しばらく薄目で息を潜めていたが、ハイヒールの持ち主も、それ以外の存在も現れなかったため、私は身を起こして辺りを見回す。

 闇はないのに暗く、光はないのに明るい。そしてなにもない。あるのは目の前の真っ赤なハイヒールと、私だけだ。

 なんとなくそれが正解であるような気がして、私はハイヒールに足を伸ばした。想像以上にぴったりだったハイヒール。と、無意識に一歩を踏み出した瞬間、扉をくぐったように世界が変わった。

 

 なにもない世界から一変、そこは雨の降る何処かの校舎だった。見覚えのないその景色は、何処か作り物めいている。

 じわりと浮き上がるように、景色の中に滲み上がっていくのは、小学生くらいの子どもたち、そして彼らと手をつなぎながら傘をさす母親たちだ。

 子どもの視線は母親に、母親の視線は子どもに向いていて、誰も私には気づかない。

 私はここに存在していない。

 どれほどそうしていただろうか。徐々に雨水をはじく足音が少なくなり、辺りがテレビの砂嵐みたいな雨音のノイズに包まれる。

 じわりと、また新しいシミが浮き上がる。ひとりの少女が立ち尽くしている。その少女に向かって、一歩一歩距離を詰める。ハイヒールの神経質そうな音が、やけに響く。

 うつむく少女の目の前にたどり着き、見下ろす。ゆっくりと長い時間をかけて、こちらを向いた少女の目は、沢山の色で塗りつぶされた様に真っ黒だった。

 

 古臭い雰囲気の曲。時々音を枯らしながら鳴り続けるその曲に、どこかで聴いたことがある。そう思ってすぐに母の鼻歌を思いだした。

 母が機嫌のいい時に、何時も口ずさんでいた歌がある。悲しげな歌詞とは裏腹に、その曲調は明るく、弾むようなリズムだった。母はその曲を愛の歌だと言っていた。

 ロックグラスに透かした、向こう側を眺める母。その瞳の暗さも相まって、母はとても美しかった。

「騙されたんだ」と言う人もいた。だけど母は確かに、真っ赤な唇を緩め微笑んでいた。口紅を拭った母の、やわい桜色を知っているのは私だけなんだと。それが少し誇らしかった。

 

 途切れながらも鳴り響く音に、私は身体を起こす。なれないハイヒールに手間取りながら、あたりを見回す。闇はないのに暗い、頭上から照る光の足元には、丸いテーブルに乗った蓄音機があった。

 コツコツと音を立てながら、その蓄音機に近づき、手を伸ばす。ただ私がその無機質な冷たさを想像する一ミリの間に、音は途切れてしまった。

 そのまま立ち尽くした私は、足元のハイヒールに目をやる。テラテラとした赤が溶けだして、とろとろと流れてしまいそうだ。

 ふと制服の胸ポケットに違和感を感じ、そこをまさぐる。指先に当たる冷たい感触の正体、それは黒く見えるほど赤い、真っ赤な口紅だった。

 私は恐る恐るその真っ赤な芯を繰り出し、いつか見た光景を模倣する。思ったよりも柔らかいその感触に、少し手が震えた。

 

 気づけばそこは、雪に埋もれた白い世界だった。ところどころ浮かぶ家々の灯りが、ひどく胸を締め付ける。

 遠くにひときわ眩しい灯りが見える。扱いにくい足を動かし、前に進む。通り過ぎる灯りたちから感じる気配に、世界から切り離されて感じる。

 どれほど進んだだろうか、ようやく辿り着いた灯り。少しの期待を込めてそれを覗き込む。

 赤、煌、温、箱、緑、笑、甘、星、朱、黄、和、輝、赤、眩、丸、緑、虹、幸、光、灯、光、輝、光、光、光。

 私の居ない世界。

 目から雫がこぼれ、頬を伝う。それはとても冷たくて、頬が焼けた様に感じた。

 ふと隣を見ると、同じ様に灯りを覗き込む少女が居た。少女はこちらを見ることなく、じっと灯りを見つめている。

 私の目は何色だろうか、そんな事を考えた。

 

 「ギ、ギィ」軋ませる音、「ギ、ギィ」一定のリズムで軋む音。むせ返るような臭い、生々しい臭い。

 母はとても華奢な人だった。コツコツと鳴るハイヒールを履いていなければ、その存在が世界に滲んでしまいそうな、そんな人だった。

 母はとてもいい香りがした。やわい桜色をした唇で、私のおでこに口づける母。その母の体温みたいな柔らかい匂いがした。

 私は母のことをよくは知らなかった。例えば私の父のこと、仕事のこと、母が生まれた場所のこと。それでも問題はなかったのは、華奢で他愛ない、桜色の母を愛していたからだった。

 

 コツコツとなる音、むせ返る臭い、軋む音、古臭い曲。黒く見える程濃い赤に、全てが塗りつぶされていく。

 

 消毒液の臭いに、意識が手繰り寄せられる。目を閉じていても解る眩しさに、薄っすらと目を開ける。そこは何処までも白く、眩しい部屋だった。ぼやけていく視界の端で、白いカーテンがさわさわと揺れる。

 ぽたりとシーツに吸い込まれていく涙を見て、なんて悲しげに見えるのだろうと嘲笑する。

 悲しいわけではない。私はただ、真っ赤な口紅をして、下ろしたてのワンピースを着た彼女の、娘でいたかった。くだけた姿勢で転がった、真っ赤なハイヒールの上で揺れる彼女の、娘でいたかった。

 

おわり

 

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